大声で叫ぶ偶像:その意味と解釈(*)

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大声で叫ぶ偶像:その意味と解釈(*)
マーティン・ スターン

 言語の周縁へ戻ろう……言語の起点……単音節だけで意味と重要さが表現できた場所へと。キャンディス・ブレイツは『バベル・シリーズ(Babel Series)』(1999)というインスタレーション作品で、発話の初期段階にあたる断片的な言語だけでコンサートを開いた。広い展示空間を満たすべく、いろいろな高さにあちこちからぶら下がった7台のテレビモニターには、なれ親しんだミュージックビデオから作られた映像のループが、くり返し切れ切れの言葉を発している。ポップカルチャーの偶像たち。スターたちがひっきりなしに、断片的な音節をくり返す。

 部屋に近づいてゆく。メディアクイーンのマドンナが、絶えまなく口をパクパクさせている。入室する。ノイズゲート。不協和音。単純化。度を越した抽象化。しかし何にもまして、リズム、切り刻まれ反復する、くり返し何度も。不協和音的なビートの連なりに、言葉が溶け込む。まったくの大混乱。

 あたりを見まわす。カラーフィルムを通して差し込む陽射し。黄色。美しく湾曲した窓。吊り下げられた青く光るモニター。原色。ここはどこだろう? 聖域、パーティールーム、宇宙のディスコを混ぜ合わせたようなありさま。空間をふらふらとさまよい、こちらからあちらの偶像へとあてどなく歩き回ることで、しだいに理解してゆく。マドンナ……スティング……その他のスターもわたしたちの目前に吊り下げされ、テレビモニターが映す映像に閉じ込められ、刹那の反復に捕らわれ、粉々になった音を発し続けている。いくつかの視覚軸があるのだが、中心はない。意味を把握するために、一台のモニターへ近づく。

 スティングはダ・ダ。マドンナはパ・パ。彼らの言葉が不完全だから、理解できないのだろうか? まったくそんなことはない。哲学者ウィトゲンシュタインによると、言葉の価値は言語の中で使用されることから生じるという。音節も同じである。言葉という目的が存在する場合のみ音節は意味を持ち、コミュニケーションの状況に応じた感情を担う。単音節あるいは複音節という形で発話されることで、ただの音節が言語的な符号ないし表現物へと変化する。名前を付けられていること。わたしたち自身も言語として発話されているのだ。声を出すことで、わたしも自分自身を「表現」する。話すことは一種の演技と言えるかもしれない。そこで不思議に思うのは、果たして音を発声したら、どうなるのかということだ。学校で「間投詞」という語を習ったことを覚えているだろうか。間投詞の特徴は、長い文章と同じく重要な意味を表現できること……だからこそ、積み重ねられた音節と同じように大切に扱われるのだ。いてっ!痛みは上手に構成された文章ではなくて、短い悲痛な叫びやうめき声によって表わされる。愛のいとなみでは簡潔な音の連なりが発せられるが、これはおそらく最もプライベートで力強い表現型式である。

 『バベル』の偶像たちがくり返しているのは、このレベルの言語である。では、わたしたちに何を叫んでいるのだろうか?何を言っているのだろうか?ガヤガヤと何をわめいているのだろう?わたしたちに向かって嘆いたり口論をしかけたり、非難したり懇願したり。もっと近づくようにと誘いつつ、ある程度の距離も要求する。わたしたちに子どもじみた不満をぶつけようとして、もっと注目して欲しいとせがむ。途切れ途切れの不協和音のコーラス。ここでは彼らの個性のもとになっている特性、あるいは彼らを確固たる存在とさせる表現、つまり「歌」のほとんどすべてがはぎ取られてしまっている。

 ほとんどすべてはぎ取られた? いや、おそらくすべてではない。歌声はわたしたちの頭の中で響いている。記憶され保存されている。憶えている過去の出来事とのつながり、共通認識を通して頭に刻まれた、記憶をさかのぼる刺激のネットワーク……わたしたちはまるで自分のことのように、彼らを知っているのだ。言語知識はあらかじめ定義されている。言葉を構成している共通した符号がなければ、だれとも理解しあうことができない。わたしたちは音で疑問を投げかけられる。この7つの偶像によって。見た目や動き。どれも見覚えがある。ほんの一瞬のビートに縮小された歌が何なのかも分かる。この有名人たちをみんな知っているし、彼らの顔や経歴、言葉やバックグラウンドも知っている。文化的なバックグラウンド。わたしたちは流行のメインストリームに育てられたのだ。

 それでもわたしたちの考えは誤っている。わたしたちはこの偶像たちから引き離される。彼らについての記憶は意味を失い、ただの参照事項になってしまう。目の前の真実は、記憶と一致しない。7人のスターたちは、伝統にしたがった常識的な言葉のルールを破っている。スティングはダ・ダ。マドンナはパ・パ。幼児性の表出。わたしたちと彼らの役割が置きかえられ、スターは子どもに変化する……不朽のポップの神々が、赤ん坊のようにバブバブ言っているのだ。にもかかわらず、彼らのコーラスはパワフルである。単純なくり返しや、声を合わせて歌えるようなリフレインが欠けたコーラス。甘美とも思える明瞭さや表層的な物語性が失われてしまったコーラス。音の領域へ、言語のルーツへと戻ろう。そこでは閉ざされた物語として封じ込められていた可能性と意味が解き放たれる。新しい未加工の音。ノイズ・ソング。ドゥルーズにならって、この作品に見られるような緻密な編集とカットが、なぜかわたしたちをリゾーム(*1)的様式へと引き戻すと言う人もいるかもしれない。つまりすべての発話や言語システムの基本モジュールを構成している、音の領域へと引き戻されると。すでに存在する記号に溶け込む、あるいは行われていない、まだ形作られていない行動を引き起こすような命令へと非階層的に発展するかもしれない、意味の単位。これは変わりやすく相対的な意味を持ち、ほんの一瞬だけ状況とのかかわりの中で存在するという音の領域である。ここで音はまだ、言語システムの特殊な性質に組み込まれていない。それでもなお感情の抑揚とイントネーションに捕らわれているのだが。ひっきりなしに変化し続ける音が作り上げるビートは、世界共通のコミュニケーションの可能性、あるいは不可能性を同時に呼び起こす。聞き手はそれぞれ違う意味を感じとるだろう。このドキドキと脈打つようなビートは、リングワ・フランカ(*2)にも、世界で共通する16 種類の基本的な構文ルールにわたしたちを従わせようとするエスペラントにも、まったく似ていない。そのかわりこの混乱ぶりが、まるで閉所恐怖症を起こさせるほどわたしたちの周りを取り囲んでいる、「言語」という第二の皮膚に対する重要な感覚をもたらすのである。この皮膚はわたしたちが音を理解可能な言語、くり返すことのできるフレーズや文章へと作り直したり、句読点を打ったりする作業の中で形作られる。つまり目の前のポップアイドルたちがいつも歌っている力強い歌詞をわたしたちが熟知しているからこそ、『バベル・シリーズ』の単音節による歌がとても新鮮に感じられるのだ。ウィトゲンシュタインを念頭に、このバビロン風のポップソングに目や耳を向けていると、言語がわたしたちにかけた理性の呪縛から自由になろうとしてもがいているように見えてくる。

*副題はハンス・ホーマンの心理学的記号論の研究論文から引用しました。

(*訳註1): リゾーム(Rhizome)とは、相互に関係のない異質なものが階層的な上下関係ではなく、横断的な横の関係で結びつくさまを表す概念を意味する。

(*訳註2): リングワ・フランカ(Lingua franca)とは、商売・取引やコミュニケーションの手段として、異なる言語が接触した際にそれに参加する人々の言語が混じりあって新しく生じる言語、言語の体系を広くリングワ・フランカという。

Translator: 
山本 陽子