このインタビューは1999年7月、ケルンで行われた。
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ハンス・ウルリッヒ・オブリスト(以下HUO): あなたは疑いについて語っていましたね。
カールステン・ヘラー(以下CH): 『疑いの研究所 [Laboratory of Doubt]』(1999年)という作品について話しました。まったく絶望的というわけではありませんがひどく戸惑っていますし、どうしたら比喩表現を使わないでこの困惑をうまく表現できるかを考えています。この困惑はとてもありがたいものです。不安感を連想させるので、長い間わたしは困惑を押さえつけていました。不安感は間違ったアプローチです。むしろ困惑の本質を正しく評価するためには、困惑から不安感を切り離そうとすべきなのです。疑いとその同義語である困惑は、どちらもわたしにとっては大切なのですが、普通は人間にとって不安感や価値観の破綻を連想させるから、できれば封印しておきたいと思うような醜い心理状態です。しかし、その逆の主張をするほうがもっと的を射ているのではないでしょうか? つまり図々しいような確信、理不尽な断言のほうが、もっと悲惨ではありませんか? これはただ現在の状況に確信を与えている幸福感という概念を連想しているに過ぎません。確信と幸福感のつながりを断ち切ることが必要なのです。
HUO : そういう問題については、90年代初頭から議論されていますね。当時は、制作プロセスに確実な着地点を設けるアート界の戦略やオブジェに対する疑問が再びわき上がっていました。展覧会場を占有するという概念に対する疑念が高まったのです。フェリックス・ゴンザレス=トレス(*1)はこれを芸術作品および文章によって、うまく表現しました。彼の表現で重要なのは、テリトリーを占拠しないで開放することです。彼の制作過程を重視する観客参加型の芸術作品は、80年代のアート界を踏まえて展開されたもので、同時代のアーティストたちに刺激を与えました。にもかかわらず現在、わたしたちは疑いのない様式化されたアート・オブジェへの回帰を体験しているのです。80年代リバイバルに関する、トークイベントすら行われています。
CH : たくさんの人たちが、まるで確固たる知識を持っているかのように、まるで彼らにはそうする権利があるとでもいうように振舞っています。アーティストは困惑なんてせず、戸惑う人たちとは正反対で、あたかも先見の明があるかのように取りつくろっているのです。でも実際はそうではありません。少なくとも表層レベルという意味では。困惑は私たちが置かれている状況を、よりはっきりと表すのです。
HUO : 表現媒体としての展示に対する疑いが、あなたの出発点となっているんですね。問題はどうやってこれを作品にするのか、どうやって芸術という背景を超えて疑いと困惑を伝えるのかということですが。
CH : 漠然とした違和感というものがありますよね・・・生活水準がわりと良かったとしても。必ずしも幸福ではありませんが、そうであるはずなのです。物質的には満足していて、生活基盤は機能しているし、戦争も長い間行われていないのですから。わたしたちが満足と感じるべき理由は無数にあるのですが、決して満足していないし、以前と比べて良くなったと心の底から感じているわけでもありません。もちろん改善されるべき点はたくさんあります。しかしそれ以上に、幸福感を人生の行動原理として追求し始めると、ニーズが飽和状態になってある種の困惑をもたらすことになります。と同時に、すべての人間の幸福を実現させることが不可能であることも、一種の困惑状態を引き起こします。「改善」そのものが自分の幸福感を高めてくれるわけではないのだから、本当の意味での改善を達成することはまったく不可能であり、それ故にかつては正しいと思えた社会思想や政治構造がもはや無意味なものとなり袋小路に入り込んでしまうのです。
HUO : 疑いの形式を見出すとともに、どうしたらその思想を形式化しないでいられるのか、いまだに不思議です。逆説的ではありませんか?
CH : プロジェクトという形式による、疑いの形式化を避けようとしているのです。困惑はさらなる困惑を生み出します。わたしは困惑を表現したいと思っていますが、何らかの結果を得ようとしているわけではありません。わたしが考えているのは、それが体験できる状況を捜し求めるというものです。それがたとえベンチに座って戸惑うということでも構いません。しかし実演するとなると、すでに困惑を克服するための形式を見つけたことになるので、本当に困惑していることにはなりません。ですからこれは、ある種のジレンマを生み出すことになります。