サーキュラー・プレイ:終わりのない物語

 インストラクション・ペインティングは、見えないもの、時空の概念の存在を超越した世界の探求を可能にする。そして、インストラクションそのものもいずれは消滅し、完全に忘却されるだろう。--オノ・ヨーコ[*1]

 1960年代前半、オノ・ヨーコはインストラクションを基本にしたいくつかの「絵画」作品を手掛けた。「釘を打ちなさい」という《釘を打つための絵》、「カンヴァスあるいは絵画を床や通りに放置しなさい」とある《踏み絵》、あるいはカンヴァスに穴を空けた《風のための絵画》や《空をみるための絵画》など、それらの多くは《カットピース》に代表される彼女のパフォーマンス作品と同様、観客の関与によって完成するが、それが観客のイマジネーションにのみ存在する場合も多い。言い換えれば、観客の内面にある不可視の思考や想像をモチーフとした「絵画」だと言える。

 デンマーク出身で、現在はロンドンを拠点に活動するニナ・バイエ(1975年生まれ)とマリー・ルンド(1976年生まれ)。オノ・ヨーコのインストラクション絵画から三十年を経てデビューした彼女たちの作品は、われわれの内面にある不可視の領域に介入し、それを素材にしている点、パフォーマンスとの親和性が高い点でオノのインストラクション絵画を連想させる。「既存の状況に対してインストラクションや新たな要素を加えることで、境界線を拡張すること」に関心があるという彼女たちは、ローレンス・ウィナーやヴィト・アコンチら1970年代のコンセプチェアル・アーティストの影響を受けて育った世代でもあり、非物質的な状況や素材をその芸術言語としてきた。また、制作過程や展覧会の場で、しばしば参加者の集団的な心理が取り込まれ、いわゆる観客参加型の作品としての分類が可能な点もオノ・ヨーコと共通する。それらは目の前の状況に対するアクティブな干渉を促し、そこに巻き込まれた人々の心理を投影するように、場の状
況を予想不可能な新しい物語へと書き換えていく。

 日本初個展となる本展のタイトル「サーキュラー・プレイ」は、同名のパフォーマンス《A Circular Play (A new draft for an old script)》に由来する。アーティストたちはガートルード・スタイン原作の同公演に出かけ、役者の言葉、動き、小道具などを新たな脚本として書き留める。それはライブ・パフォーマンスの主観的な体験といったスタインの思考や彼女特有の執筆スタイルに着想を得たものだ。ここでは、書き換え、主観的表現や体験による素材の変容に対してアーティストの持つ関心が明らかになる。「A Circular Play」と題されたこの新しい脚本は、実際の展覧会ではひもで結ばれ、読めない状態で展示される。この作品が演劇、俳優、観客を内包する虚構の空間としての劇場や舞台を暗示するように、展覧会としての「サーキュラー・プレイ」では、概念の再定義や上書きのプロセスが個々の作品を緩やかに繋いでいく。その軌跡は、円を描こうとする線が始点に戻りそうでいて、そこから僅かにずれることで描かれるスパイラルのようでもある。それは押韻や同音異義語、繰り返しなどの言葉遊びで知られるガートルード・スタインの実験的手法にも通じ、観客はそこかしこに散りばめられた記号やコードを読み取ることになる。極めてシンプルなインストラクションに始まるスパイラルは、予測不可能で終わりのない物語となり、見る者の想像上で物語の続編が綴られ始めるのである。

 例えば、鎌倉の海岸で制作された《Port of Call》では、何人かのグループが波打ち際に並んで立ち、波の行き来にあわせて前後に動く。彼らがトレースするのは日本という小さな島の輪郭線であり、その線を想像上で延長することで日本列島が脳裡に描かれる。一部を意識することで、より大きな全体像の想像が可能になるのだ。ここで、波の動きから若干遅れて動く人の列が実際の日本の輪郭からは若干外れていることも、《A Circular Play》で脚本が多少の逸脱とともに上書きされるのと似ている。あるいは、4名のソプラノのソリストが同時に同じ曲を歌ったパフォーマンス《The Self-to-Other Ratio》や、バイエの両親が結婚した際に持っていた重複本を箱詰めした《The House and the Backdoor》で明らかにされる、ほぼ同一だが完全には一致していない領域にも通底している。

 《Port of Call》によって導かれる不可視の領域は、時空を超えて過去や未来へ見る者を誘う。古いポスターがイメージを内側にして半分に折られ、もとどおりに額装された《The Archives》シリーズでは、タイトルの「El Futura es la Paz (未来に平和)」、「For anti-imperialist solidarity, peace and friendship (反帝国主義者団結、平和と友情のために)」といった言葉、僅かに裏写りしているイメージなどを手がかりに、それらが何らかの意図とともに制作され、メッセージの受け手との間に何らかの価値や関係性があった過去の次元へ見る者は想像を膨らませることができる。そして、隠された内側のイメージとの距離に、その想像が充満する。さらに言えば、そのわずかな距離やギャップは、新しい流れや未来を創り出すための潜在的な開放性や流動性でもある。


 《History Makes a Young Man Old》では、いみじくも占い師が未来を予対するクリスタルの玉が使われている。目的地まで転がされ、表面が傷だらけになった玉は、未来を遠視することの不可能性によって、逆に不可視の領域へとわれわれの想像を誘導する。内部に不可視の領域が創出されるのは、展覧会の会期中、郵便物を開封しないままギャラリー入口に山積みにする《All the Best》でも同様である。展覧会という虚構の空間へ外部の現実世界が郵便物という形で介入し続けるものの、そのコミュニケーションが数カ月放置されるのだ。その結果、ギャラリー空間は内に閉じた領域となり、ギャラリストはその想像によってのみ外部の現実世界と繋がること
ができる。

 このような距離感は、本来の機能を変化させることでも生み出される。《One on One》シリーズでは、ニつが合体したマラカスが、二人でそれぞれのマラカスを振ろうとするときの、アイデンティカルなリズムの不可能性を物語る。また、縫い合わされたカーテンが機能不全や無意味さをユーモラスに示唆する。《Light Switch Light》では、デスクライトがその電源を照らしている様がナンセンスでユーモラスだ。それは光や電流の循環を描いているようでもあり、本来の意味のうえに新たな意味が上書きされている。また、一対のスピーカーが合わせられ、外に向かって発せれるはずの音がスピーカー相互の内部に閉じ込められている《All the Love Songs》では、あたかも恋人同士が二人だけの想い出を楽しんでいるようにも見えて微笑ましい。これら一連のオブジェ作品では、奇妙さとユーモアが現実から見る者の意識を引き離すための隠し味として活かされている。

 バイエとルンドがユニットで活動することもまた、イマジネーションのキャッチボールをしているようで、ある状況に振れ幅を確保することの一助となっているように思われる。シェルレアリストの手法に倣い、一枚の紙を端から順に折り曲げ、隣接する新たな面を違う色で交互に彩色する《The Conversations (The exquisite corpse will drink the young wine)》は、四角形の周囲から内面に向かう恣意の連続を視覚化したものだ。チャンスオペレーションとも言えるこのシリーズは、ニ人の未来が果てしなく広がっている様を美しく描き出しているようにも見える。

 展覧会という虚構の空間のなかで、作家のインストラクションによって意味づけされる物質としての作品は「サーキュラー・プレイ」を演じる役者となり、観客やギャラリストのイマジネーションとともにそれぞれが穏やかに繋がりながら台本のない芝居を続けるのである。

*1: Yoko Ono: Instruction Painting," Yoko at Indica, exhibition catalogue, 1966

 

片岡真実
森美術館シニア・キュレーター
へイワードギャラリーインサーナショナル・キュレーター

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この文章は、ニナ・バイエ&マリー・ルンド『A Circular Play』展 (企画:片岡真実、2008年6月13日〜 7月19日、WAKO WORKS OF ART、東京) のために執筆されたものです。

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