Vibrations 波動

「物理学では今までに直線を見出していない。ただ波を見出しただけである。物理学は今までに固体を見出していない。ただ高周波を生じる場を見出しただけである。宇宙は3次元的な、垂直や平行などという固定的な仕組みにはおさまらないのだ。物理エネルギーはいつも拡散的に広がり続ける(放射)か、あるいは収束的に凝縮し続ける(引力)かのどちらかである。」
バックミンスター・フラー

すべての物事は過程のさなかにあるとわたしは考える。速い遅いというスピードの違いはあるにせよ、すべては動き続けているし、思惑によって手を加えられる。これは社会全体とかインターネットの国際的検索エンジンの開発というような総合的なシステムだけではなく、いま目の前に存在する空間をどのように認識するのか、あるいは次の日誰とどんなやりとりが生まれるのかというような個人的な事柄にもあてはめることができる。このような関わりは徐々に変化しているのだ。すべては動き続けている。すべての物事は時間の流れの中に存在するのではなく、時間「そのもの」なのである。

近代社会は膨大な数のシステム、関係、状況、アイデアから時間のような要素を取り去ることで、そのようなものを具体化してしまう傾向があると感じる。その結果、共同空間を作り上げるためにあみ出した規則の意味が失われてしまった。このような規則が基準となり、規則そのものが絶え間なく新たな規則を生み出すようになり、どんどん形式的になっていったのだ。ことに娯楽産業は、時間的な概念をあえて忘れさせるというコミュニケーション戦略を発展させた。そうすることで消費者にとっての普遍的なユートピアを作り上げるという、娯楽産業の意図が果たしやすくなるのだ。だから時間と物体の断絶は、ほぼ商業的な目的でなされる場合が多い。個々の物体や物体同士の関係を理解するときに時間が重要となるような他の思想体系は、残念なことに娯楽産業の価値観の前に消え去ってしまったのだ。それでわたしたちの感覚は時間や時間的配列の体験に馴染みがなくなって、物体は時間とは関わりがないことをあたりまえだと思うようになってしまった。物体を認識するという行為から時間的な要素を取り除くということは、私たちの感覚器がいわば時間から隔絶されているという前提に基づいている。わたしは物体や周辺環境を構成する要素として時間を取り戻すため、このような問題をはらんでいる世界体験の方法を浮き彫りにしたいと考えているのだ。物体や物体同士の間に生まれる関係は、波動の起こる場と捉えられると主張しよう。固有のエネルギー原理として波動を抜き出すことで、異なった物の見方が可能となるかもしれない。もちろん解釈のようなものとして。そしてここから新たな空間概念が生まれる可能性がある。

物事や世界のようなものに時間を取り戻すこと自体は、わたしが作り上げたちょっとしたモデルによって探究できるだろう。このモデルは - - 芸術やあるいはその他の- - 思想の発展を起点とする。というのもわたしたちはいまだに時間をそのプロセスの構成要素と認めているのではないかと思うからだ。

第一:思想
時間を経ることで思想や概念が発達するということには同意できるだろう。思考を巡らせるには時間は関係ないという考えは意味をなさない。たとえば読書、散歩、食事、その他さまざまな活動には時間がかかったり、あるいは時間を経なければいけなかったりするのであって、それらから時間を切り離すことはできないのと同じである。

第二:思想に形式を与える
こうやってできた思想をうまく伝えるためには、形式的言語を利用するか盛り込む必要がある。そうすることで自分以外の人々も、この思想が理解できるようになるのだ。そのため表現しようとしている事柄に形式を与えるわけだが、このちょっとした試みを複雑化させないためにも、とりあえず形式は表現しようとする事柄の「器」であるとしておこう。主旨と形式の関係は明らかにもっと複雑なものだが、今のところはいくつもある形式的言語の重要な目的は、内容を伝達することだという点だけを指摘しておく。(もちろん形式的な習わしはたくさんあるし、内容に基づいた興味を持たないアーティストがたくさんいることは言うまでもない。このようなアーティストたちは形式的な思想に喜びを見出し、形式的言語の装飾性しか表現していない。)

第三:思想の伝達
先にも述べたように、象徴的に表わされた伝達の道筋を強調あるいは明確化するために思想に応用されているさまざまな階層をもった形式は、わたしが利用したいと思っている性質だけにはとどまらない。。望むと望まざるとにかかわらず、または起点となった思想に効果的であるかそうではないにかかわらず、あらゆる思想は伝達されるさいに、いわゆる形式的な属性や階層を帯びることになる。したがって形式は一時的なものであり、柔軟に環境に合わせたり調整したりすることで常に変化し続けるのである。このように形式や形式に基づく主張は時間の流れのなかで多大に相対的なものであり、形式はもうまったく変化しない完全な表現として存在するという考えは成り立たなくなる。しかし多くの人々が、形式やわたしたちの感覚を世界規模で商品化して得られる効率をよしとする合理主義は、物体は相対的あるいは可変の存在であるという考えを妨げになるものとみなし、資本主義的な価値体系の根本において、形式が時間の中では相対的な存在であるという思想は抑圧されてきた。このような状況はきっと変化するに違いない。

第四:時間は個別的
このように思想が発展していくということは、時間によって規定されたある特定の文脈に根差した状況である。当然のことながら、思想が形成されたからといっていきなり時間が停止してしまうことはない。時間は決して止まらない、あるいはもっと控えめにいうならば、慣習や絶えまなくチクタクという音に対する共通の感覚に照らし合わせてみても、自分が生きているあいだは、時間が途切れることはないのだと理解される。量子力学や基礎物理学の研究者が、時空間の解釈に根源的な新理論を提起するのでもない限り、時間は自分が死ぬまで進み続けるだろう。もちろん腐敗ということはさておき、死は自分の肉体に流れる時間を停止させるのだ。だからわたしは「あなた」の時間と「わたし」の時間について、語らなければならないだろう。つまりほとんどの人々が当たり前とみなしている普遍的な時間解釈についてではなく、生きている間にわたしたちが体験する時間についてである。
時間の感じ方には非常な個人差があるので、ある人にとって速く感じることでも別の人は遅いと感じるかもしれない。もしかしたらわたしは形式や形式的言語により、去年経験したある特定の状況を思い出すかもしれないし、わたしが同じ場所をまた訪れることになっているのならその期待が形式の認識や、ひいてはどのように形式がそなえる時間性を体験するかということにも影響するのである。かくしてわたしたちの時間とのかかわりが思想や物体に与える相対性には、個人差が大きいことが明らかになる。直接的な体験だけが主観的というわけではない。過去の記憶や未来の予測も、認識もしくは理解に対して、大きな個別的影響を与えるのだ。

第五:あなたの関わり連鎖 [Your Engagement Sequence (YES)]
基礎的な科学研究のためにも、この時間との関わりが否応なしにもたらす相対性に具体的な名前をつける必要がある。そこでYES (あなたの関わり連鎖[Your Engagement Sequence] )という名前を提案したいと思う。YESは伝統的に真理だと思われてきた物事を相対的にとらえた場合の具体例として理解することもできる。だからいわゆる真実の提示がなされる場合、それに関わり合い、よく考えた上で本質を見抜き、そしてできることなら活用するために、あなた個人のYESをそれにつけ加えるべきなのである。YESを認知の重要な要素に取り入れることで、世の中にまかり通っている物質の性質には時間が含まれないとか性質は変化しないとかいう考えが見直され、あなたも具体的な状況へ能動的に関わる責任のあることが明らかとなる。

第六:時間を取り戻すことの意義
主観が主体と客体の対話や対立によって理解されているような文化では、客体が時間の流れのなかに存在しているという思想は、むしろ目障りなことかもしれない。これは特に近代主義が人の到達しうるはずの至高の目標として、主観の不変性——永遠の生命——という概念を提唱したからである。そのため、思想は時間との関わりの中にのみ存在するという考え方には、真実か真実ではないものかという西洋的な定義全体を粉々にし、世界を複雑な状態にする効果もあるのだ。物事は常に変化し続けており、(時間という意味も含めた)前後関係や関わり合いなどのようないろいろな要因の影響を受けているという根本的な考えの上では、実にさまざまな個々の性質が成り立つので、基本的なコミュニケーションですら難しくなるように思える。というのも、相対性には関心を払わないという現代的で合理主義的な社会でのコミュニケーションの風潮によってとりわけ、普段書いたり話したりしている言葉が普及しているからである。
先ほどのYESを利用して真実が相対的であることを受け入れる、あるいは実践すれことでわたしたちは回りの環境との関係に責任を負うという一般的な意識が形作られるのではないだろうか。つまり自分が関わることによって結果が変わり、ある程度の責任感を感じるようになるのだ。

当分の間は今述べたようなことが、時間という思想を個々の物体や世界全体との関わりの中で理解したり伝えたりするための、何よりも魅力的なモデルのように思われる。時間の構造化のようなものを徹底的に調べ上げるよりも、むしろ「体験は文化的に組み立てられるものである」という物事すべてに当てはめられる思想を実証しうるかもしれない、いくつかの大まかな原則を提示したいだけなのだ。もちろん、このような解釈は都合の良いように手を加えられている可能性がある。だからこそ周りの環境との有益な関わり合いのなかでもたらされる、責任を自覚することが大切である。

Translator: 
山本 陽子