"audio picnic" 1. At an anechoic room

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「無響室」というとよく引き合いに出されるのが、ジョン・ケージが記した無響室での音の体験である。
「なにも聞こえない状態」を体験するためにハーヴァード大学の無響室に入ったケージは、そこでふたつの音を問いた。ひとつは脈搏の、そしてもうひとつは活動中の神経系統の音というどちらも彼自身の身体が生み出している音が無音の部屋の中で聴こえてきたのだそうだ。この体験からケージは、「絶対的な沈黙が存在しないこと」「生きている限り音響は存在すること」そして「音と沈黙は同一物である」という鮮やかな結論を導き出した。
この詰を聴くと、ほとんどの人が「自分も体験してみたい」そして「無響室とはいったいどんな部屋なのか」「無響室はどこにあるのだ」という気持ちになってしまうのではないだろうか。とりあえず僕はそう思った。そして数年前その思いが実現した。

神戸のジーベックで音に関するワークショップが開講された。その際、僕は無響室での実験を提案し採用された。ジーベックの親会社にあたる音響機器メー力ーTOAの宝塚音響センターに「世界最大級!」の無響室があるのだ。そこで総勢四十名ほどがチャーターしたバスに乗り込み無響室体験ピクニックに出かけた。「無響室」とはいったいどういう部屋なのか。その説明の前に「無音」と「無響」とは意味が違うということを認識しておかなければならない。ケージが「無音の状態を体験するために無響室に入った」ことから、無響室があたかもすべての音を吸い取るブラックホールのような印象を与えてしまったようだ。そのせいか、翻訳されたものをいくつか調べてみたら「無響窒」と訳されていたのは岩佐鉄男訳のものだけだった。ほかは「無音室」と訳されており、なかには「無音箱に入った」という、まるでドラえもんのような訳もあった。
無音を体験するためには、なにも無響室に行かなくてもよいのである。外部からの音の侵入をシャットアウトした部屋でなにも音を出さなければ、無音の状態になる。それに対して無響室とは、「音」を消すのではなく「響き」を取り去ることを目的につくられた部屋なのである。
われわれが日常体験している音は、音源から直接耳に到達する直接音と、壁などに反射して遅れて耳に到達する間接音のブレンドされたものなのである。この「間接音」がいわゆる「響き」のことであり、響きの状態によって音の方向や距離を知覚したり、空間の大きさや材質感を感じ取ったりしているのである。「無響室」は、間接音を無くするために、壁、天井、床の六面を吸音質の素材でつくつた、直接音だけを生じさせる特殊な空間なのである。だから、無響室では音がなくなるわけではけっしてなく、音の響きだけがなくなるのである。


視覚的には異様な空間であるが、聴覚的には、普段の体験とほんの少しばかり異なっているだけの空間なのだが、この「ほんの少しばかり」の違いが、聴覚にとっては異次元へのトリップとなる。

では実際に無響室に入るとどんな感じになるのか。一メートルはある厚い扉を押して無響室に入る。エレヴェータに乗った時のような鼓膜を押さえつけるような圧迫感を覚える。扉が閉められる。完全な沈黙。しばらくの間耳を沈黙の世界に傾ける。脈搏の音は聞こえてこない。神経の音も。音の無い世界が、たんに音の無い世界であって、半分がっかりし、半分安心する。そして、いよいよ実験に入る。
持ってきたさまざまな楽器を鳴らしてみる。あまり変化しない楽器もあるし、まったく変わってしまう楽器もある。タンバリンなどは一叩きするとパーンと響くものであるが、無響室で叩くと、「パ」で終わってしまう。つまり「パ」が「音」であり、「ーン」が「響き」であるということがよくわかる。「音響」とはうまい日本語である。
もっとも奇妙な体験は、向かい合ったふたりが会話をする場合に起こる。近距離で会話をしながらひとりが後方に遠ざかって行く。視覚的には遠ざかって行く人の声がほとんど変化しない。いくら離れても、耳元で囁かれているような奇妙な感じがする。目と耳がどんどん分離して行く。この部屋は確実に異次元の世界なのである。ほんのちょっとした響きの違いで、僕たちはアナザー・ディメンションにワープできるのだ。しかし、このピクニックは長続きしない。ものの五分も経つと、われわれは無響室の世界が「あちら」ではなく「こちらの世界」であるとして順応してしまい、あたりまえのように部屋をうろつきだす。人間の耳はなんといいかげんなものであるかが実感でき、自分がいとおしくなる。
わずか数分の聴覚の遠足は終了した。しかし、つぎなる異次元へのピクニックが始まる。重い扉を引いて外に出ると、無響室に順応した耳には、新たなワンダーが待ち構えている。

『美術手帳』708号 美術出版社 1995年6月 190-191頁